Lost Samurai
─新渡戸稲造の『武士道』
「私は、日本に大和魂があると聞いて、それを学ぼうと楽しみにやってきた。だが、残念ながら大和魂はどこにもなかった。凡打だと、笑いながら一塁へ走ってくる選手がいた。私は、その選手をぶん殴ってやりたかった。大和魂のために…」。
ルー・ゲーリック
「野球という遊戯は悪くいえば巾着切りの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、ベースを盗もうなどと目を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊びである。ゆえに米人には適するが英人や独人には決して出来ない。野球は賤戯なり、剛勇の気なし」。
新渡戸稲造『野球と其害毒』
 映画『ラスト・サムライ(The Last Samurai)』(二〇〇三)のヒットにより、新渡戸稲造(一八六二─一九三三)の『武士道、日本の魂(BUSHIDO
The Soul of Japan)』(一八九九)が脚光を浴びている。二〇〇四年のアテネ・オリンピックにおける日本のシンクロ・チームまで「武士道」をテーマにしているほどだ。新渡戸はこの書を日本語ではなく、英語で書いている。一八九七年に病気療養を理由に札幌農学校教授を辞職し、翌年からアメリカで静養生活に入っているのだが、その間に、それを執筆している。
 福田恆存は、『反近代の思想』において、明治期、日本が西洋と出会った際、「近代」思想はすでに「反近代的」なものを含み、「明治という時代には、最高の知識人さえ二重の姿勢をとらざるを得なかった」と次のように述べている。
 強靭な合理性と実証主義の精神とに裏打ちされたヨーロッパの近代思想は、この種の浪漫的自己錯誤からは全く無縁であった。真の近代精神は──十九世紀という合理主義の絶頂期においてさえ──近代の毒という煮え湯を飲まされ、それに堪えぬいてきたところに、いいかえれば近代への懐疑を一度通過し、それを克服しようという努力のうちに成立したのだ。逆説的に聞えるかもしれないが、ヨーロッパの一流の近代精神は、つねに、きわめて「反近代的」であった。とすれば、鴎外や漱石や小林秀雄という日本におけるもっとも代表的な西欧的知性が反近代的な姿勢や態度をとらざるをえなかった事情、反近代的であったがゆえにこそ近代的でありえたというパラドックスは、ヨーロッパにおける以上に切実に納得できるであろう。
 新渡戸も、明治の知識人の例にもれず、「近代」と「反近代」という「二重の姿勢をとらざるを得なかった」と考えることもできよう。『武士道』はたんなる復古主義の書ではない。「近代への懐疑」と同時に「近代」を「克服しようという努力」を含み、「反近代的であったがゆえにこそ近代的でありえたというパラドックス」を体現していというわけだ。「この頃やけに武士道に人気があるけれど、不思議だと思う。最近、司馬遼太郎を読み直してみた。ナショナリストが司馬さんを持ち上げているけれど、あの人は基本的に町人だ。武士は単なる美意識。形は武士で、実質は町人だ。仔細にみると、商品流通の世界に味方していて、武士道イデオロギーには批判的だ。それに例えば日本人は外来種から来ていると、その点ではかなりコスモポリタンだ」(森毅『世の中がどう変わっても大丈夫、若者よ希望を抱け』)。
 しかしながら、この「二重の姿勢」には、新渡戸の場合、父殺しが秘められている。武士道のイデオロギーは、確かに、神の死と矛盾し、「反近代」に属している。けれども、この「反近代」という姿勢は倒錯している。新渡戸容疑者は父殺しのアリバイを偽装している。“You have the right to remain
silent and refuse to answer questions. Anything you do say may be used against
you in a court of law. You have the right to consult an attorney before
speaking to the police and to have an attorney present during questioning now
or in the future. If you cannot afford an attorney, one will be appointed for
you before any questioning if you wish. If you decide to answer questions now
without an attorney present you will still have the right to stop answering at
any time until you talk to an attorney”.『武士道』は「反近代的であったがゆえにこそ近代的でありえたというパラドックス」を描いているのではなく、近代日本の父殺しの指南書である。
The killer awoke before dawn,
he put his boots on 
He took a face from the ancient
gallery 
And he walked on down the hall 
He went into the room where his
sister lived, and...then he 
Paid a visit to his brother,
and then he 
He walked on down the hall, and
And he came to a door...and he
looked inside 
Father, yes son, I want to kill
you 
Mother...I want to...fuck you 
C'mon baby, take a chance with
us 
C'mon baby, take a chance with
us 
C'mon baby, take a chance with
us 
And meet me at the back of the
blue bus 
Doin' a blue rock 
On a blue bus 
Doin' a blue rock 
C'mon, yeah 
Kill, kill, kill, kill, kill,
kill 
This is the end 
Beautiful friend 
This is the end 
My only friend, the end 
It hurts to set you free 
But you'll never follow me 
The end of laughter and soft
lies 
The end of nights we tried to
die 
This is the end
(The Doors “The End”)
 新渡戸は、『武士道』の第一版序において、執筆動機を次のように述べている。
 約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏の歓待を受けその許で数日を過ごしたが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。
 この小著の直接の端緒は、私の妻が、かくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行なわれているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことによるのである。
 私はド・ラヴレー氏ならびに私の妻に満足なる答えを与えようと試みた。しかして封建制度および武士道を解することなくんば、現代日本の道徳観念は結局封印せられし巻物であることを知った。
 長病のため止むおえず無為の日を送っているを幸い、家庭の談話で私の妻に与えた答えを整理して、いま公衆に提供する。その内容は主として、私が少年時代、封建制度のなお盛んであった時に教えられ語られたことである。
 一方にはラフカディオ・ハーンとヒュー・フレーザー夫人、他方にはサー・アーネスト・サトウとチェンバレン教授との控えている間にはさまって、日本に関することを英語で書くのは全く気のひける仕事である。ただ私がこれら高名なる論者たちに勝る唯一の長所は、彼らはたかだか弁護士もしくは検事の立場であるに対して、私は被告の態度を取りうることである。私はたびたび思った。「もし私に彼らほどの言語の才があれば、私はもっと雄弁な言葉をもって日本の立場を陳述しようものを!」と。しかし借りものの言語で語る者は、自分の言うことの意味を解らせることができさえすれば、それで有難いと思わねばならない。
 この著述の全体を通じて、私は自分の論証する諸点をばヨーロッパの歴史および文学からの類例を引いて説明することを試みた。それはこの問題をば外国の読者の理解に近づけるに役立つと信じたからである。
 宗教上の問題もしくは宣教師にとき及んだ私の言が万一侮辱的と思われるようなことがあっても、キリスト教そのものに対する私の態度が疑われることはないと信ずる。私があまり同情をもたないのは教会のやり方、ならびにキリストの教訓を暗くする諸形式であって、教訓そのものではない。私はキリストが教え、かつ『新約聖書』の中に伝えられている宗教、ならびに心に書されたる律法を信ずる。さらに私は、神がすべての民族および国民との間に──異邦人たるユダヤ人たると、キリスト教徒たると異教徒たるとを問わず──「旧約」と呼ばるべき契約を結びたもうたことを信ずる。私の神学のその他の点については、読書の忍耐を煩わす必要がない。
 理論的な関心からではなく、ド・ラヴレー氏ならびに新渡戸の妻のような西洋人に対して自分自身を告げるという私的な動機から新渡戸は『武士道』を書き始めている。私的な理由からスタートしたとしても、この序文は当時の日本と西洋の関係を反映している。「白人の重荷」を背負い、世界に文明を啓蒙化させる使命を抱いた西洋人の眼には、自分たちの常識以外は奇異としか映らない。新渡戸が「借りものの言語」である英語で書くことによって、「弁護士もしくは検事の立場」ではなく、「被告の態度を取りうる」と言っていると降り、東洋人は、先進を自認する西洋人に対して、自らの常識を説明しなければならない。カール・マルクスの『資本論』にさえも言及し、「封建制の活きた形はただ日本においてのみ見られる」と記したマルクスと同様に、「西洋の歴史および倫理研究者に対して、現代日本における武士道の研究を指摘したいと思う」と書く新渡戸は、彼らにわかりやすいように、武士道を世界的なコンテクストの中で相対的な一つの思想として論じる。彼は、ウィリアム・シェークスピアや『旧約聖書』などを引用しつつ、「切腹」を「法律上ならびに礼法上の制度」であって、決して野蛮で特異な行為ではないと説明する。「腸を刺した程度では、苦しいだけで容易に死ねない。時代劇の切腹に介錯がつくのも、腹を切っただけではすぐに死なないからだ。切腹だけで死のうとすると、腸を切って、さらにその奥の背骨の前を通っている腹部大動脈まで切断しないと死ねない。余談だが、池波正太郎の時代小説を読むと、首の頚動脈を切られて即死した、という描写がよく出てくるが、頚動脈を切られると頭に行く血液が極端に少なくなるので、意識はすぐになくなるだろうが、死ぬまでには何分かかかるだろう」(支倉逸人『検死秘録』)。
 近世以前、切腹は、入水などと同様、武士の自決方法の一種にすぎず、江戸時代に刑罰と明確に位置づけられてから様式化している。天下泰平の前の武士は敵に捕まるくらいなら自決を選んでいただけで、黒澤明の『七人の侍』で触れられている通り、戦に負けても生き延びて、身を潜め、再起を図るケースも多い。
 そもそも、元々武士の魂は刀ではなく、『平家物語』の中での那須与一のエピソードが示しているように、弓である。実践において、刀よりもはるかに弓の方が強力な武器であり、多くの社会と同様、中世の日本でも弓こそ戦士を表わすものとされている。平安時代の戦には、決められた順番がある。まず、声の届く距離でお互いに相手を罵倒する言葉合戦を行い、次に、離れたまま弓を射ち合う弓合戦と進み、最後に全軍突撃して白兵戦に突入する。白兵戦においては、武士は長い刀を交えるのではなく、鎧の隙間から短刀を刺すという戦闘方法をとる。刀が武士についての象徴的な意味を帯びるのは、江戸時代に入ってからと考えるべきだろう。
 この執筆動機から伝わってくるのは、新渡戸の東アジア人の宗教観に関する認識の欠如である。新渡戸は東アジア文化圏の中で日本を把握せず、まるで自立した地域であるかのように考えている。神の死において、学校の道徳教育に宗教が不可欠であるという認識は反時代的だとしても、ヨーロッパの伝統的な大学には神学部が設置しているのに対して、東京帝国大学は神学部を持たずに、創立されている。これは日本の近代化の特徴と言うよりも、中華文化圏の宗教観から当然の帰結である。
 中国は、二階堂善弘の『中国の神さま』によると、日本よりも宗教がもっと混在している。中国では、自分がどこの宗派に属しているのか知らない人も少なくない。仏教寺院に関羽、道教でそれに相当する道観に、インド伝来の神が祀ってあったりする。中国において、神は「廟」に祀られるが、この廟が至るところに見られる。横浜の中華街がそうであるように、中国文化圏では、小さな路地裏にさえ、廟がある。祀られてあるのも、インド系の神々にとどまらず、皇帝や軍人、政治家、官僚、学者、芸術家、宗教家、盗賊といった人間から、仙人、動物、妖怪と多岐に渡る。人々が廟を信仰する目的は「御利益」である。商売繁盛・家内安全・子孫繁栄という極めて現世利益のために、祀られている。来世や最後の審判、救済、解脱、悟りはあまりにも抽象的すぎる。宗教は、中国人にとって、信じるものではなく、使うものである。宗教が混合しているとか現世利益を目的にしているといった日本人の宗教観と言われている傾向は、東アジア文化圏に共通である。
 日本と中国の違いも、当然ながら、存在する。日本の仏教寺院には墓があるのに対して、中国ではない。また、遺体に関する認識も、興味深いほどに、異なっている。一九八八年の夏、中国のある地方政府の門前に初老の男の遺体が放置されている。旱魃により、収穫が例年の半分に落ちこんだにもかかわらず、地方政府は徴収する税金を変えなかったため、六八歳の男性が農民の窮状を訴えたのだが、逆に、役人に殴られ、追い返されてしまい、それに抗議して、首をくくってしまう。真相を知った遺族は激怒し、埋葬をせず、棺を乗せたトラクターを政府の建物の門の中に乗り入れ、タイヤをパンクさせ、そのままにして帰ってしまう。これは遺体を武器にした抗議である。旱魃の夏の暑さによる遺体の放つ悪臭は相当なものだったと想像するに難くない。中国では、「図頼」と呼ばれる葬儀ストライキが伝統的に見られる。明の時代の書物にも記録されている。小作人が病気の親に自殺を勧め、その遺体で地主への小作料の支払いを拒否するというのは初歩的なことである。行き倒れの遺体があると、どこからともなく、遺族と称するものが現われ、その遺体を金持ちや役人の家の前に行き、それを放置するということもある。もっとも、同情できる場合だけでなく、総会屋さながらのケースも多々あったようである。中国では、遺体は邪気を放つ恐ろしいものと考えられている。遺体を安全な存在にするには、正しい手順に則った葬儀が必要である。ところが、この葬儀には、遺族の役割が極めて重要になっている。遺族が葬儀を拒めば、いつまで経っても、遺体はそのままでとどまることになってしまい、邪気を放ち続け、社会を非常に危険な状態に陥らせてしまう。そこで、周囲の人々は当事者に働きかけて、和解させようとする。このようにして遺体を放置した人の目的が達成される。一九八九年冬、事件を知った中国共産党の省委員会の幹部が現地に赴き、遺族の説得にあたり、問題の役人を処罰し、それに納得した遺族は事件発生から二六〇日後にようやく埋葬している。“Funny how gentle people get
with you once you're dead”(Billy Wilder “Sunset
Boulevard”).日本の共同体は。日本では、歴史的に、葬儀ストライキは決してよく行われたわけではない。東アジア文化圏を認知した上で、こうした小さいけれども決定的な差異を考察することが肝要であろう。
 日本の仏教は、経典が漢文で記述されているように、中国から伝来し、その後、中国に留学した知識人や大陸から来訪した高僧を通じて普及・変容されてきたが、中国の世俗的な信仰が伝わってきたわけではないとしても、巣鴨のとげぬき地蔵が示している通り、日本の民衆の宗教に対する認識はそれと共通している。宗教は御利益であるという認識には、たとえ知識人を通じてであっても、仏教の中国化が大きな影響を与えている。
 中国人の理論と実践の関係に関する認識は、数学を例にとって見ると理解しやすくなる。中国人は数学を実践に応用することに精力を費やし、ユークリッド原論のような理論的な体系を構築する研究の対象とは考えていない。中国人は、インド人と違い、形式論理学にほとんど関心を示していない。と同時に、ギリシア人とも違い、無理数をタブー視もしていない。彼らは数学を実用性から評価する。森毅は、『分数の発想・小数の発想』において、「中国文化は、もともと分・厘・毛の小数文化」だと指摘している。「小数の発想は一本調子だ。まず単位で測って、余りがあると、別の小さな補助単位で測っていく。測られるべき量は、測る者の現前に存在し続ける。その客体性はゆらぐことない。こうしたことをおもいあわせると、近代ヨーロッパが小数を主調音にしていることも、なんとなくもっともである。目標を定めて、目的合理性にしたがって、ともあれ数量化する。その残余は、新しい単位を手段に、さらに細密化する。こうして、成果を蓄積しながら、目標へ向けて上昇していく」。「視線を定めることなく、関係性の相互規定のなかで数量化していく分数の発想は、互除法を原型として、逐次近似の手法となってコンピュータのループとなる。案外に、分数の発想も現代的と言えなくもない。考えてみれば、現代にあっては、関係性が相対化され、相互の規定が社会の構造を作っている。古典的な、一本調子の小数の発想が、だんだん有効性を失っている」。代数の表記に記号を使わず、概念を言葉で記している特徴が見られ、中国人の計算能力は、そろばんのため、非常に正確である。五世紀に、羅針盤の研究でも知られる祖沖之が弾き出したπの値の精度にヨーロッパ人が到達するのは一七世紀まで待たなければならない。また、一二世紀以前に、一般に「パスカルの三角形」と呼ばれる二項定理を導き出している。パスカルの三角形に最初に言及しているのは一一世紀の賈憲であり、一二世紀の楊輝と朱世傑が完璧に描き出している。中国人は、歴史的に、このように実用性において理論と実践の一致を捉えている。
 こうした東アジアの実用性重視は日本における教育機関の成立にも影響を与えている。近代以前の中国では、科挙の合格を頂点として教育施設が形成されている。学校は科挙に合格するための知識や技術を習得する実用的な場であり、そこには宗教による道徳教育は入りこむ余地がない。日本には、科挙のような官吏登用のシステムがないので、学校の最終目標は中国とは異なっているが、実用性重視は似ている。日本の教育機関は、江戸時代から、実用性に根拠を置いており、道徳教育が学校の範疇に必ずしも属していない。江戸時代の代表的な教育機関として藩校と私塾、寺子屋があげられる。
 藩校は諸藩が主に藩士の子弟のために設立した教育機関であり、藩学・藩学校・藩黌(こう)とも呼ばれる。内容や規模はさまざまだが、藩士の子弟はすべて強制的に入学させ、庶民は原則的に入学できない。これには医学校・洋学校・皇学校・郷学校・女学校など藩が設立したあらゆる教育機関を含まれる。藩校では「文武兼備」を掲げ、七、八歳で入学し、まず読み書きを習った後、武芸を学び、一四、五歳から二〇歳くらいで卒業するというのが通常のコースである。教育内容は四書五経といった儒学書の素読と習字を中心とし、江戸後期になると、蘭学や武芸──剣・槍・柔・射・砲・馬術──が加わっている。これらの教育を通じて、藩特有の士風を教育し、真の藩士を育成することを目標にしている。代表的な藩校には、米沢藩の興譲館(一六九七)、会津藩の日新館(一七九九)、水戸藩の弘道館(一八四一)、岡山藩の花畠教場(一六四一)、長州藩の明倫館(一七一九)、熊本藩の時習館(一七五五)、薩摩藩の造士館(一七七三)などがある。
 私塾は、ほぼ同時期に、主として、塾主の学識や徳に共鳴して集まった人々に対し、古代ギリシアのアカデメイア同様、自宅を開放して学習の場とした私的な教育機関である。江戸期の私塾は、藩校と寺子屋との中間的施設であり、武士と庶民が共に学ぶ「士庶同学」をスローガンにしている。幕府や藩から公認されていたものを「家塾」と呼んで区別する場合もある。著名な私塾には、漢学塾では、中江藤樹の藤樹書院、伊藤仁斎の堀川塾(古義堂)、荻生徂徠の蘐(けん)園(えん)塾、広瀬淡窓の咸宜(かんき)園、洋学塾として、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトの鳴滝塾、緒方洪庵の適々斎塾(適塾)、大槻玄沢の芝(し)蘭(らん)堂、国学塾は、本居宣長の鈴屋(すずのや)などがあげられる。また、幕末期には、大塩平八郎の洗(せん)心(しん)堂や吉田松陰の松下村塾など政治的運動の拠点となっていく塾も生まれている。さらに、福沢諭吉の慶応義塾や津田梅子の女子英学塾などは後に大学へと発展していく。内容は、学問や武芸、芸事──三味線や琴、俳諧、裁縫、書道──と多岐に渡り、塾生の学識や能力によってそのレベルにも幅がある。幕末には、自分の勉学目的に沿って全国の私塾で修養を積み歩く遊学が盛んになり、私塾内に宿泊施設が設けられ、アフガニスタンのタリバーンがパキスタンのマドラサで生まれたように、維新の志士もこうした環境の中で育っている。
 寺子屋は、江戸時代に普及した庶民の教育機関であり、手習所(てならいじょ)とも呼ばれる。寺子屋の起源は戦国期に遡るが、天保年間(一八三〇─四四)、貨幣経済の発展を背景にして、一大ブームを迎える。寺子屋は幕府や藩の保護統制を受けることはほとんどない。教師は僧侶や神官、医師、浪人、教養のある農民であり、寺子もしくは筆子(ふでこ)と呼ばれた生徒の年齢は六から一三歳、一クラスに二、三〇人程度の規模である。教育内容は読み書きとそろばんを中心に、授業時間の大半が手習い(習字)に費やされている。教科書には、『庭訓往来』や『商売往来』など書簡を手本とした往来物、『実語教』といった道徳的な書物が使われている。都市部においては、その他、茶道や華道、漢学、国学も教授する寺子屋も畝委されている。また、農村部でも、商品生産の盛んな地域では、就学率が五割近くに達している。欧米と比べて、当時の日本の識字率は、そのため、高かったと見られている。明治期以後は小学校教育の普及により衰退したが、現在でも、私塾や寺子屋のスタイルは、いわゆるお稽古事に引き継がれ、武道や芸術活動において重要に意義を持っている反面、音楽大学に入学するには、学校教育だけでは不可能という文教政策の矛盾さえ生じている。
Young teacher the subject
Of schoolgirl fantasy
She wants him so badly
Knows what she wants to be
Inside her there's longing
This girl's an open page
Book marking - she's so close
now
This girl is half his age
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Her friends are so jealous
You know how bad girls get
Sometimes it's not so easy
To be the teacher's pet
Temptation, frustration
So bad it makes him cry
Wet bus stop, she's waiting
His car is warm and dry
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Loose talk in the classroom
To hurt they try and try
Strong words in the staff room
The accusations fly
It's no use, he sees her
He starts to shake and cough
Just like the old man in
That book by Nabokov
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
(The Police “Don't Stand So Close To Me”)
 現在、中国文化圏において、イスラム教やキリスト教も信仰されているが、仏教・道教・民間信仰の大きく三つが信じられている。道教は中国文化圏で生まれ、そこで育ち、その外に出ることがなかった宗教であり、その意味で、最も中国的な宗教と言えるだろう。また、民間信仰には、確固とした宗教体系はない。これら三つの宗教の境界は極めて曖昧である。聖職者たちは教えに厳格であるけれども、一般の民衆はその限りではない。中国の宗教界において、最も大きい出来事は、紀元前後の仏教伝来である。インドで生まれた仏教は非常に抽象的で、中国文明にとって、異質であり、儒教や道教は、その衝撃によって、体系化されていく。東アジアにおいて、最も基本的な道徳は儒教であり、それに時代・地域・身分による通俗道徳が混じり、さまざまなヴァリエーションが生まれている。体系化が進むにつれ、道教も仏教も、愚かな迷信として、民間信仰を排撃する。けれども、御利益のないもの、すなわち実用性のないものを信じる民衆は少なく、仏僧は仏典や仏教説話を俗人に、民間信仰を援用して、わかりやすいように講釈し始め、道教も同様の方針転換をする。その結果、各宗派も複雑に融合していく。こうした「俗講」の僧は、唐の時代から、タレント化し、仏教色を弱めた「小説」を語るようになる。さらに、元の時代になると、戯曲が流行する。農村地域にあった祭祀儀礼に含まれた歌舞や所作、白(セリフ)が「個々に独立分化し、文化洗練されて、神霊降臨の物語としての演劇が成立」(田仲一成『中国演劇史』)する。歴史的な出来事や事件、経典ではなく、『西遊記』や『封神演義』といった演義によって仏教はまず一般にも知られるようになる。当時の識字率は低かったので、直接読まれることは少なく、それらをモチーフにした講談や芝居を通じて民衆の間に普及していく。宗教の教義の民衆への布教に演劇が利用され、その後、演劇が宗教から離れて娯楽へと発展していく過程は中国に限ったことではない。チューダー朝のイギリスにおける演劇の隆盛もほぼ同様の経過をたどっている(この時代の仮面劇の流行は愛情をわきたたせるためである。当時、結婚は愛に基づくのではなく、ビジネス上の契約と考えられており、顔を隠すことで結婚の意味を転倒させている)。芝居の種類は豊富で、セリフ劇だけでなく、オペラやミュージカルも含まれている。時代が下るにつれ、『三国志演義』や『水滸伝』といった宗教性が希薄な作品も発表・上演されるようになっている。演劇の流行により、役者には驚異的な記憶力が要求され、劇作家は良質な作品を大量に素早く書かなければならなかったろう。こういった文学や芸術を通じて、神が選ばれ、祀られていく。孫悟空を祀った廟が中国各地に見られるのは、そのためである。
 人気小説のタイトルによくついている「演義」は通俗小説という意味である。通常の漢文と違い、白話、すなわち口語で書かれている。この白話体は、もちろん、現代的な言文一致体とは異なり、中華文化圏の共通語である漢文に対するドメスティックな言語と捉えるべきだろう。漢文と白話の違いは単語と「形態素(Morpheme)」の関係にある。漢文では、一つの漢字が一つの意味を持つと同時に単語として機能する。他方、白話には、意味を持っているものの、他の要素と結びついて初めて単語として使われる形態素の漢字が存在する。「これは日本語の訓読みと音読みになぞらえることができるかもしれません。訓読みのほうの『目(メ)』は自由ですが、音読みの『目(モク)』は不自由です。『瞠目』『反目』『目撃』など、何かと結合して使うことになります」(相原茂『はじめての中国語』)。目で見て理解する前提の漢文においては、杜甫の『春望』の「国破山河在」というように、「国」が一字で単語として使われている。けれども、口で話し、耳で聞く白話では、「国」は形態素にすぎないため、単独で用いられることはなく、その意味で表現したい場合は「国家」としなければならない。こうした特徴から、漢字は、近年、「表意文字(Ideogram)」ではなく、「表語文字(Word Character)」と呼ばれる傾向になっている。「城山三郎氏に『粗にして野だが卑ではない』という小説がありますが、これを漢字を使わず『そにしてやだがひではない』と書いたり、耳で聞いても、何のことやらさっぱりでしょう。視覚に訴える漢字の力です。ひるがえって、現代語では書かれる文章も口語体(話し言葉)に基礎をおいていますから、当然、口語で用いられる2音節語の方が使われます」(『はじめての中国語』)。人々が井戸端会議などでお互いに語り合った面白い話や奇怪な話は、古代中国において、「小説」と呼ばれている。為政者は、驚くべきことに、これらを収集し、書物にまとめている。ただ、漢の時代までの小説は、タイトル以外、ほとんどが残っていない。演義はその系譜上にある。
 漢文は文化圏の共通言語であるけれども、中国文化圏では、漢字だけでなく、それをヒントに独自の表音文字が生まれ、文学サ品を通じて伝承されている。日本や朝鮮半島でも、表音文字が考案されているが、ベトナムも、中国に支配された影響で、古くから漢字が使わると同時に、漢字の部首を組み合わせたチュノム(字喃)というドメスティックな文字が考案されている。チュノムは文芸作品使用されたものの、難解なため一般にはあまり普及していない。フランス領時代に、ベトナム語のローマ字表記が漢字とチュノムに代わって使われるようになり、今日に至っている。
 中国の民衆向けの小説や芝居において、歴史的出来事は口実にすぎない。この傾向は、程小東監督の『スウォーズマン(東方不敗)』シリーズが示している通り、今日の香港映画・マンガでも同様である。なお、中国の思想書・物語において、センテンスの論理的結びつきは、西洋のものに比べて、緊密ではない。アナロジーやアレゴリーなど詩的飛躍を多用し、センテンス間の隙間を意図的に開けている。作者が読者を説得するのではなく、読者のイマジネーションを刺激するように努めている。作品は誰かによって使われるのを待っている。『西遊記』は仏教の教えを一般に伝える目的で、玄奘(三蔵法師)がインド(天竺)に経典を取りに行くという歴史的事実をモチーフにしているが、醍醐味は孫悟空たちと妖怪との戦闘シーンである。演義が生み出した最大の神が関羽であり、彼は、現在、中国人の間で最も信仰されている。関羽は蜀の劉備の部下の軍人であるが、志半ばで呉の孫権に殺されているため、かつては怨霊と考えられている。日本では、菅原道真のように、非業の死を遂げた人を霊を慰める目的で、神として祀るという習慣があるけれども、中国では、そうではない。関羽をめぐる状況を一変したのが『三国志演義』の流行である。その中で描かれた力強さが、彼を怨霊から神に押し上げる。各地に、廟が建設され、その地位は清になると最高にまでのぼりつめ、今日では、ヤクザから警察まで彼を「関帝」と祀っている。日本でも、文学作品を通じて、源義経や武蔵坊弁慶といった為政者に粛清された英雄、国定忠治や清水次郎長、石川五右衛門といったアウトローが神格化されて、信仰対象になっている。神を芸術が創造する以上、それは移ろいやすい。ある神が信仰されたかと思うと、ちょっと時が経つと、廃れ、別の神が祀り上げられる。宗教は流行の一種である。すべては御利益がありそうだというイメージ次第である。複数の宗教を信じることも可能である。実用性という観点から見れば、こうした宗教観はまったく間違っていない。神は時代の季語にすぎない。
 こうした宗教の混在は中国や日本だけではなく、実際に、文化圏全体で広く見られる。ベトナムは多くの文化の影響を受けたため、諸宗教が混在している。中心的な宗教は仏教であり、仏教各派をあわせると仏教の信者が現在でも最も多く、道教や儒教の要素を多く含んだ民間信仰も信じられている。また、フランスの植民地支配により、キリスト教徒も多く、特にローマ・カトリック教会は六〇〇万人の信者がいると言われている。今日、仏教と関係のあるホアハオ(和好)教やキリスト教・仏教・道教・儒教などを統合したカオダイ(高台)教といった比較的新しい宗教も多くの信者を変えている。一九九〇年に教祖の死亡で解散してしまったものの、一九六四年、グエン・タィン・ナムが仏教・儒教・キリスト教との混合宗教として始めたココナッツ教というユニークな宗教も信仰されている。東アジアの宗教の交配は、インドのシーク教に見られる対立するイスラム教とヒンドゥー教の融合とは異なり、あくまでも御利益の追求によって行われている。
 中華文化圏の中の日本という観点が新渡戸にまったくないのには、当時の歴史的・社会的背景に起因している。
 まず、欧米人の中国人に対する感情は、この時期、よくない。一九世紀、ゴールド・ラッシュなどによって中国人がアメリカに渡り、合衆国各地にチャイナタウンを建設している。彼らは「上海さん(Shanghai)」と呼ばれ、ドラッグにかかわっているという偏見に基づいて差別されている。一八八〇年代には、パックス・タタリカのモンゴル人に譬えられ、カリフォルニアで、「黄禍論(Yellow Peril)」が唱えられ始めている。しかし、アメリカを代表する文化のジャズの誕生には中国人も欠かせない。ニューオーリンズで、ヨーロッパ文化とアフリカ文化、ラテン・アメリカ文化だけでなく、中国人が持ちこんだ東アジア文化が融合して、ジャズが生まれている。付け加えるならば、二〇世紀に入ると、中国人だけでなく、急増する日本人移民も差別されるようになっている。「中国人の不法滞在者が起こす犯罪があまりに多い。中国の政府がどう認識しているか知らないが、水爆を作っている国を援助するくらいなら、その分を東京の治安、中国人犯罪対策に回した方がよほどましだ」(石原慎太郎)。
 新渡戸は、『武士道』において、執筆時の状況を次のように言っている。
 日本の変貌は全世界周知の事実である。かかる大規模の事業にはおのずから各種の動力が入りこんだが、しかしもしその主たるものを挙げんとすれば、何人も武士道を挙ぐるに躊躇しないであろう。全国を外国貿易に解放した時、生活の各方面に最新の改良を輸入したる時、また西洋の政治および科学を学び始めた時において、吾人の指導的原動力は物質資源の開発や富の増加ではなかった。いわんや西洋の習慣の盲目的なる模倣ではなかった。
 日本の名が本格的に世界に知られるようになったのは日清戦争の勝利によってであり、それをきっかけにして、欧米から主権国家として扱われるようになる。半植民知的な不平等条約(一八五八年の安政五ヵ国条約)が完全に改正されるのは──領事裁判権は一八九四年に改正されていたけれども、関税自主権の問題が未解決──、『武士道』が公表されてから一二年後の一九一一年(明治四四年)である。新渡戸は武士道を「日本の変貌」の「精神的原動力」としているが、「動力」があったとしても、それが働く構造がなければ、力は力として機能しない。武士道か明治のこの時期に発見されるのは、必然的な構造かある。一八八九年(明治二二年)に憲法が公布され、翌年には教育勅語が発布される。学校は近代化のイデオロギーを布教する教会であり、学校における道徳教育は最大の争点として今日に至るまで続いているのだが、新渡戸はまったく触れていない。一八七九年頃、近代化を進める下級武士と天皇と共にやってきた宮中派は教育問題をめぐって軋轢が顕在化し、お互いに発言力を確保しようと激しいイデオロギー闘争をしている。両者の妥協によって近代日本の諸制度が成立していく。その典型が一八九〇年に下賜された「教育ニ関スル勅語」、いわゆる教育勅語である。政府内のさまざまな権力抗争の後、次第に、保守派が覇権を掌握し、自由民権運動を代表にする民権派はいきすぎた欧化政策によって、文化的混乱をもたらしていると宮中派と共に考えるようになっている。教育勅語が明治維新のイデオロギー、それも立憲制の原則に完全に反していることを起草者である法制局長官の井上毅も承知していたけれども、もともと欧化派に属していた井上も首相の山県有朋に説得され、自ら執筆をかってででいる。『官報』に教育勅語が掲載されたが、その際、文部省訓令第八号の付帯資料として二ページ下段から三ページ上段にかけて収められている。重要法案は『官報』の巻頭に載せるべきであるけれども、「政治上の詔勅ではなく君主の社会的著作として性格を与えたため、当然の措置であった」(佐藤秀夫『教育の歴史』)。
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ 克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習イ以テ知能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ尊ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
(『教育ニ関スル勅語』)
 教育勅語はこのように定義を欠く曖昧な儒教道徳と通俗道徳、皇国史観が混在しているだけでなく、三ヵ月程度で仕上げたやっつけ仕事だったため、文法上のミスまである。「一旦緩急アレハ」と記述されているが、この場合、已然形ではなく、「一旦緩急アラハ」と未然形でなければならない。「教育勅語には非常に悪いところもあったし、とてもいいところもあったはずで、全部だめだったというのはよくない」(森喜郎)。「総じて、日本社会の教育理念の根源を『良心』とか『神』とかに求めるのではなく、歴史的存在であると同時に現在の支配構造の要となっている天皇制に求めているところに、この勅語の基本的特徴があったといえる」(『教育の歴史』)。教育勅語は現体制の正当化を理論的な根拠に基づいて訴えるのではなく、まがまがしい神話的な言説を無根拠に並べ立てている。「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく、その思いで私たちが活動して三〇年になった。(略)われわれ国会議員の会も神社本庁のご指導をいただきながら、ほんとうに人間社会に何が一番大事なのかという原点をしっかり皆さんに把握していただく、そうした政治活動をしていかなければならない」(森喜郎)。教育勅語は新たなる価値を育むためではなく、保守が目的になっている。近代的な法治国家建設を目指した明治維新に反した徳治主義的な教育勅語が道徳の基礎づけを行ってしまう。このフェイクの近代国家は一八九四年(明治二七年)に日清戦争で勝利してしまう。維新以前の日本は大陸からの影響なしには考えられないが、日清戦争の勝利はもはや日本は中国に学ぶものなどないという意識を多くの日本人に与えている。『武士道』はこうした時代の雰囲気で生まれ、教育勅語から決して遠くない「基本的特徴」を持っている。「東京では、不法入国した三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している。大きな騒擾(そうじょう)事件すら想定される。警察の力には限りがあるので、自衛隊も、治安の維持も目的として遂行してもらいたい」(石原慎太郎)。
 新渡戸は、『武士道』において、武士道の起源について次のように分析しているが、そこには大陸からの影響がまったく記されていない。
 武士道は上述のごとく道徳的原理の掟であって、武士が守るべきことを要求されたるもの、もしくは教えられたるものである。それは成文法ではない。精々、口伝により、もしくは数人の有名なる武士もしくは学者の筆によって伝えられたる僅かの格言があるに過ぎない。むしろそれは語られず書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法たることが多い。不言不文であるだけ、実行によっていっそう力強き効力を認められているのである。それは、いかに有能なりといえども一人の人の頭脳の創造ではなく、またいかに著名なりといえども一人の人物の生涯に基礎するものではなく、数十年数百年にわたる武士の生活の有機的発達である。道徳史上における武士道の地位は、おそらく政治史上におけるイギリス憲法の地位と同じであろう。しかも武士道には、大憲章もしくは人身逮捕令に比較すべきものさえないのである。十七世紀初めにおいて武家諸法度が制定せられたことは事実である。しかし武家(諸)法度十三ヵ条は概ね婚姻、居城、徒党等に関するものであって、教訓的規則はほんの僅かだけ触れられているに過ぎない。それ故に我々は明確なる時と場所とを指して、「ここに泉の源がある」と言うことができない。ただそれは封建時代において自覚せられたものであるから、時に関する限りその起源は封建制と同一であると見てよかろう。しかしながら封建制そのものが多くの糸によって織り成されているのであり、武士道もその錯綜せる性質を享けている。イギリスにおいて封建制の政治的諸制度はノルマン征服の時代に発していると言われるが、日本においてもその興起は十二世紀末、源頼朝の制覇と時代を同じくするものと言いうるであろう。しかしながらイギリスにおいて封建制の社会的諸要素は遠く制服者ウィリアム以前の時代に遡るがごとく、日本における封建制の萌芽もまた上述の時代より遥か以前から存在していたのである。
 新渡戸が「封建制そのものが多くの糸によって織り成されている」と言っているように、武士による支配は鎌倉幕府から始まるが、それは必ずしも線的ではない。「侍」は「伺候する」を意味する「さぶらひ」に由来し、主君の側に仕える近侍であり、必ずしも、武士を指すわけではない。武士は平安時代に生まれた朝廷ならびに国衙の抱える民兵や非中央権力的な武装集団のことである。体制側の軍人は「武官」と呼ばれている。芥川龍之介の『いもがゆ』で描かれた藤原利仁のような六位以下の下級技能官人層が本来の侍である。ちなみに、「浪人」は主君を離れ、封禄を失った武士を指す。最初は、落ちぶれて困窮したという意味の「牢籠」から「牢人」の字が用いられたが、後に、「浪々」、すなわちさすらい歩くから「浪人」へと変わっている。武士という単語は『続日本紀』(七九七)に登場するが、ここでは社会的な身分呼称ではなく、職能として用いられている。一一世紀後半以降に一般化する武士は、たんなる武芸保持者の呼称に加え、その地域での領主の意味が含まれるようになり、特定の社会的身分をめぐる集団の呼称へと変化する。武士の出現が中世という時代の形成には不可欠であるが、武士誕生の原因は依然として解明されていない。ただ、それには東北地方の動向が決定的な影響を与えていたと見られている。豊かな東北地方の特産物をめぐる武力衝突が武士を誕生させたというわけだ。
 鎌倉後期から南北朝期、反幕府あるいは反荘園領主的な行動をとった武装集団である「悪党」が出現している。彼らには在地領主、有力農民、狩猟、漁労、商工業、交通、金融などさまざまな階層が含まれる。中には、柿色の帷子(かたびら)をつけ、笠や面を被り、飛礫(つぶて)や走木(はしりぎ)といった武器を使い、賭博や盗みを働き奇抜な異類異形の姿をする者もいる。鎌倉幕府は、山賊や海賊と並んで、取り締まったが、彼らは、徐々に、下級荘官や代官となって荘園を請け負い、富を蓄積し、後期には、無視できない勢力となっていく。後醍醐天皇は楠木正成ら諸国の悪党の力に注目し、彼らを組織して討幕運動に利用する。幕府は、その結果、崩壊し、悪党は、室町幕府が南北朝期を経て安定してくる中で、在地の有力武士である国衆層へと発展する。守護の被官となったり、逆に守護を排斥する国人一揆の中核ともなったりするだけでなく、商工業者や金融業者として都市に定着し始めてもいる。武士には、悪党出身者も少なくない。
 室町幕府は、首都を京都に置いたことからも、鎌倉・江戸幕府とはいささか性格が異なる。室町幕府の支配力は駿河以東には完全には及んでいない。その地域は鎌倉府が統治している。室町幕府の財政は、瀬戸内海を中心にした交易で得られる銭によって成り立っている。東に政治的中心を置いた鎌倉ならびに江戸幕府の財政は年貢米が主である。都市型の支配様式を持っていた室町では商業がリーディング産業であり、鎌倉=江戸では農業が基幹産業である。
 その室町時代には正反対とも思える二つの流行が見られる。南北朝期に流行った「婆沙羅」の風潮・時代精神を体現した大名が登場している。婆沙羅はサンスクリット語に由来し、もともとは金剛石(ダイヤモンド)を意味する。ダイヤモンドが石を砕くことから、音楽・舞楽でメインストリームを外れ、自由に目立つように演じることを指し、さらに、伝統・権威・常識・身分などを度外視した無遠慮な行動、贅沢、派手好みも含むようになる。南北朝期には一つの風潮となり、伝統的な価値観に囚われない奔放で派手な婆沙羅絵や婆沙羅扇がもてはやされている。特に、北朝方の守護の中に、婆沙羅を熱狂的に愛好する婆沙羅大名が多く出現する。近江の守護佐々木道誉、美濃守護の土岐頼遠、足利氏執事の高師直などが代表的な例である。他方、それとは逆にシンプル・ライフも提唱されている。応仁の乱の時代に生まれた四畳半という間取りは、一九六〇年代の「四畳半フォーク」が示していた通り、それは貧乏くささの象徴だったのに対し、当時、最もファッショナブルである。応仁の乱が起きた混乱した時代であるため、鴨長明のような隠者は憧れの的であり、彼らは都の郊外の山の辺に草庵を建てて住んでいたが、その間取りが四畳半である。都の有力者たちも、彼らを真似て、自宅の敷地内に四畳半の草庵を建てている。四畳半は、今のログハウスやフローリングのように、クールだったのである。応仁の乱は現代の内戦の典型的な特徴を示している。一五世紀中ば、室町幕府の守護大名に対する統制力が弱まり、各地で守護大名の勢力争いや大名家内部の家督争いなどが頻発する。応仁の乱はこうした背景の下で起きたのだが、直接的なきっかけは、山城守護職の要職にあった畠山家の家督争いである。一四六七年正月、畠山義就(よしなり)との家督争いに敗れた畠山政長は京都の上御霊社に拠点を構え、義就に軍事蜂起する。義就には山名宗全(持豊)、政長には細川勝元と幕府の主導権を争う二大守護大名が結託したため、内戦が勃発する。細川側は幕府政庁(花の御所)を支配下に置き、山名側はその西方の持豊の屋敷を本陣とした点から、前者が東軍、後者が西軍と呼ばれるようになる。一四六七年五月になると、両派が諸国の軍勢を京都に集め、諸大名が寺社に布陣して全面戦争に突入する。当初、東軍が優位に立ったものの、八月に大内政弘が大軍を率いて上洛すると戦況は変わり、一〇月、相国寺での激戦で、西軍が勝利する。京都での大規模な戦闘は、この相国寺合戦を頂点として一、二年で終わったが、以後も両軍は京都で断続的にテロもしくは市街戦を繰り広げ、さらに、全国各地でも両派の戦闘が続く。これは、別に、サダム・フセイン政権崩壊後のイラクの情勢を説明しているわけではないとしても、その経験を生かそうとしないとしたら、ただの無能にすぎない。両軍の構成は流動的だったが、主な軍勢は次の通りである。東軍に、将軍足利義政を筆頭に、斯波義敏・畠山政長・京極持清・赤松政則・富樫政親、他方、西軍には、義政の弟足利義視を始め、斯波義(よし)廉(かど)・畠山義就・六角高頼・一色義直・土岐成頼(しげより)・大内政弘らが加わっている。東軍は二〇ヵ国の兵二〇万もしくは一六万、他方、西軍は二〇ヵ国の兵一一万六〇〇〇あるいは九万を集めたと『応仁記』(作者・成立年共に不明)は記している。一四七三年、細川勝元と山名宗全が相次いで没すると停戦への動きが始まる。年末には義政の息子の義尚が第九代将軍に就任したが、東軍では細川氏の結束が固く、一方の西軍では大内政弘が指揮権を掌握したため、依然として両軍は山城一帯で臨戦態勢を崩していない。ところが、七七年になって、大内政弘が将軍家に懐柔されて兵を引き揚げ、美濃守護の土岐成頼が足利義視父子を伴って撤退すると、中央の戦闘は終結する。以後、戦いの舞台は地方へと移る。この内戦により、幕府の権威は有力な地方政権程度にまで失墜してしまう。将軍義政は戦争による混乱にもかかわらず、政治にあまり関心を示さず、東山に山荘を造営して、芸術の世界に耽溺し、その母親の日野富子も信じられるのは金だけとばかりに蓄財に走ったため、人々から非難される。足軽や盗賊が寺院や屋敷を焼き払い、宝物を略奪してまわったこの時代の京都は、一九八〇年代のベイルートや九〇年代のサラエヴォのように、応仁の乱という内戦による市街戦を経験した首都であり、京都から逃げ出した難民や亡命者が日本各地に小京都を建設している。現在、日本の伝統文化と見られているものの中に、能や狂言、生け花、茶の湯など室町時代に起源を持っているものが少なくない。それは公家文化と武家文化、町人文化が融合している。京都はまさにそういった流行の最先端であり、小京都は破壊される前のファッショナブルな京都を模して各地の有力者が建設し、亡命者が、そこに洗練さを加え、今に至るまで、独自の発展を遂げていく。室町時代は、このように非常に振幅の大きい時代であり、武士はこうした混乱と繁栄の中で力を振るっていく。「汝ヤシル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ルナミダハ」(飯尾常房)。
 この時代を省みるとき、倭寇の誕生も忘れてはならない。倭寇は朝鮮半島や中国大陸沿岸を襲い、人や食糧などを略奪している。「倭寇」は「日本からの侵略者」の意味があり、時代と地域によって実体は多種多様だが、南北朝期後半と戦国期の二つにピークがある。朝鮮半島の高麗の記録では、一三五〇年に「倭寇の侵、ここに始まる」として、半島南部の各地に倭寇が襲来したため、高麗の軍隊が迎え撃ち、賊三〇〇人を殺害したとされている。以後、七〇から八〇年代にかけて、大規模な倭寇が頻発し、数千人規模で四、五〇〇隻の船団で襲うことも稀ではない。米穀や人、租(そ)粟(ぞく)を運ぶ漕船を狙った倭寇による被害は高麗の衰退の一因となっている。一三九二年、李氏朝鮮が成立すると、日本に倭寇禁圧を要請し、また、徹底的な武力討伐を行うと同時に、投降する倭寇には地位や住居を与える硬軟とり混ぜた対策を打ち出している。倭寇の活動地域は、それにより、中国沿岸へと移ったが、将軍足利義満の時代に始まった日明貿易(勘合貿易)が軌道に乗ると、急激に沈静化する。倭寇の構成員は、対馬・壱岐・五島列島や松浦地方の島々の海賊衆、漁民、商人などだったが、朝鮮人も多数加わっている。戦国期になって、日明貿易が途絶えると、中国大陸の南部沿岸や東南アジア沿岸で、倭寇の活動が再び活発化する。特に、一五二二年からの約四〇年間が最も激しい、九州全域から瀬戸内海沿岸出身の日本人の倭寇もいたが、この頃は、中国人が多く、東アジアへ進出してきたポルトガル人も参加している。これには背景がある。当時、経済活動が発達して貿易が活発になっていたにもかかわらず、明は海禁政策をとり、人々が海外と交易することを認めなかったために多数の密貿易者が生まれ、それらも明は「倭寇」と見なしている。倭寇の七割が中国系だったと考えられている。倭寇は多国籍企業だったのである。中国浙江省にあった密貿易の拠点が明の軍隊によって壊滅してからは、彼らも北九州に拠点を移し、日本人倭寇と共に中国沿岸を襲撃するようになっている。この頃の海賊は、世界的に、安全性と効率のため、船よりも海沿いの町を襲うことが多い。ダグラス・フェアバンクスが映画『ダグラスの海賊(The Black Pirate)』(一九二六)で見せた驚異的な離れ業をできる海賊などいなかっただろう。一五六七年、明が海禁令を解除し、日本でも、一五八八年、全国統一を進める豊臣秀吉が海賊禁止令を制定したため、倭寇も沈静化していく。有力な倭寇の一つ松浦党は、それを受けて、大名となり、海賊行為から手を引いている。
 倭寇も商取引の一種であり、武士以上に彼らのほうが現代的であった点もある。蒙古襲来を経験した松浦党は、中央権力を頼らず、小領主が同盟を結び復讐を誓い合っている。当時の契諾状には、談合は多数意見を尊重し、判断は道理に従うなど民主的な内容が記されている。
 海賊の民主性は、実は、日本に限らない。カリブの海賊はイギリスの海軍よりも民主的である。一七世紀のポート・ロイヤルの海賊たちの関係は、当時のイギリス海軍と比べて、はるかに自由で民主的である。封建制が残る軍艦の中では、賃金格差はひどく、体罰やいじめ、権威主義が横行していたが、海賊船上は、全員平等な多数決によって決定され、戦利品は山分けにされている。彼らは、確かに、人殺しであり、泥棒であるけれども、決定プロセスの点では、進歩的である。彼らの労働契約書の内容は今日の人権規約に酷似しているだけでなく、怪我等の労働災害も保障されており、労働者保障の先駆けである。海賊たちには旧態歴然たる軍隊が嫌で逃げ出した元水兵も多くいたし、ジョン・ラッカム船長の下にはアン・ボニーとメアリー・リードといった女性の海賊もいる。また、海賊になれば、奴隷も自由の身になれる。しかも、ヘンリー・モーガンという船長は海軍提督を上回る能力の持ち主だったと伝えられている。
Official: [reading a
proclamation] Jack Sparrow , be it known that you have…
Jack : [standing on the
gallows] Captain, Captain Jack Sparrow .
Official: …for your willful
commission of crimes against the crown. Said crimes being numerous in quantity
and sinister in nature, the most egregious of these to be cited herewith –
piracy, smuggling…
Governor Swann : Commodore
Norrington is bound by the law. As are we all.
Official: …impersonating an
officer of the Spanish Royal Navy, impersonating a cleric of the Church of
England…
Jack : [smiling] Ah, yes.
[looks over at the executioner who glares at him]
Official: …sailing under false
colors, arson, kidnapping, looting, poaching, brigandage, pilfering, depravity,
depredation, and general lawlessness. And for these crimes you have been
sentenced to be, on this day, hung by the neck until dead. May God have mercy
on your soul.
Will : [walks through the crowd
to the raised ground on which they stand] Governor Swann . Commodore. 
Governor Swann : 
Will: Move! [throws sword as
Jack falls through, the sword sticks in the wood and Jack has a foothold; he
fights to the gallows and there cuts Jack free; they fight all the way up to a
tower where they are cornered by Norrington’s men]
Norrington: [to Will ] I
thought we might have to endure some manner of ill-conceived escape attempt but
not from you.
Governor Swann : On our return
to 
Will : And a good man. [Jack
points to himself proudly, mouths “That’s me.”] If all I have achieved here is
that the hangman will earn two pairs of boots instead of one, so be it. At
least my conscience will be clear.
Norrington: You forget your
place, Turner.
Will : It’s right here…between
you and Jack .
Governor Swann : 
Norrington: So this is where
your heart truly lies, then?
Jack : [notices the parrot] Well!
I’m actually feeling rather good about this. [to Governor Swann ] I think we've
all arrived at a very special place, eh?
Spiritually…Ecumenically…Grammatically? [to Norrington] I want you to know that
I was rooting for you, mate. Know that. 
Gillette : Idiot. He has
nowhere to go but back to the noose.
Sentry: Sail ho!
Gillette : What’s your plan of
action? Sir?
Governor Swann : Perhaps on the
rare occasion pursuing the right course demands an act of piracy, piracy itself
can be the right course?
Norrington: Mr. Turner .
Will : [to 
Norrington: [unsheathes his
sword] This is a beautiful sword. I would expect the man who made it to show
the same care and devotion in every aspect of his life.
Will : Thank you.
Gillette : Commodore! What
about Sparrow?
Norrington: Well, I think we
can afford to give him one day’s head start. [the soldiers leave with
Norrington]
Governor Swann : So, this is
the path you’ve chosen, is it? After all…he is a blacksmith.
Jack : [is heaved onboard the
Black Pearl ; to Gibbs ] I thought you were supposed to keep to the Code.
Gibbs : We figured they were
more actual…guidelines. [helps Jack up]
Jack : [ Cotton hands him his
hat] Thank you.
Anamaria: Captain Sparrow [puts
his coat around his shoulders] …the Black Pearl is yours.
Jack : [walks over to the helm
and looks around fondly] On deck, you scabrous dogs! Man the braces! Let down
and haul to run free. Now...bring me that horizon. [hums and takes out his
compass] And really bad eggs…drink up, me 'earties, yo ho.
(Gore Verbinski “Pirates of the 
 室町時代の終焉後、一七世紀ごろからさまざまな方法によって武士の存在意義は理論的に正当化され始めるが、武士道はその一つである。キリスト教も、一時期、有力な規範道徳として機能している。戦国末期から江戸時代初期にかけて、数多くのキリシタン大名が出現する。一五六三年、肥前の大村純忠が最初に洗礼を受け、他には、大友宗麟、有馬晴信、高山右近、小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷らが知られる。キリシタン大名は、ローマ字の印章や十字架あるいは聖像の旗印などを用い、領内の神社・仏閣を破却したりもしている。短期間のうちに、西日本にとどまらず、東北地方にもキリスト教徒の武士が現われている。伊達政宗は、一六一三年、単独で家臣の支倉常長をスペインやローマに使節として送っている。一五八七年、豊臣秀吉は伴天連追放令を出し、江戸幕府も一六一三年にキリシタン禁制を厳しくしたため、多くは改宗している。ただし、高山右近は、領地を没収され、一八一四年にはマニラへ追放となっても信仰を貫いている。
そんなに欲しい天下なら
家康お前にくれてやろう
まぐれで勝った関が原
さぞやよろいも 軽かろう
せめて百日関が原続いていればこの天下
オレのものにしていたものを
信長・秀吉・家康と 仕えて戦さに明け暮れた
水の如くと 流れてきたが
今は天下に未練なし
黒田官兵衛苦笑い
一生ツキがなかったと
黒田官兵衛苦笑い
弓をひかずに ただ待つだけで
天下取ったか 家康よ
十万の兵士ひきいて敗れた
石田三成 おろかもの
せめてひと月関が原 続いておれば博多から
大阪・今日まで攻めこんだ
天下を取れば船を出し バテレンの国や絹の道
ただの一人で かけめぐる
それの今は 夢の夢
黒田官兵衛苦笑い
一生ツキがなかったと
黒田官兵衛苦笑い
流れる水に 文字を書く そんなムダな一生さ
人よ笑え二流の人と 今はおのれがあわれなり
黒田官兵衛苦笑い
一生ツキがなかったと
黒田官兵衛苦笑い
(海援隊『二流の人』)
 なお、長崎県の生月島・平戸島・五島列島・外海などの間に居住する隠れキリシタンに今日まで伝承されてきた「オラショ」、すなわちラテン語と日本語による祈祷は、世界的に見て、貴重な史料である。「オラショ」はラテン語の「祈り(orazio)」の転訛であり、特に、生月島には唱えるだけでなく、歌う「歌オラショ」がある。反宗教改革を目的としたトレント公会議(一五四五─六三)後の典礼刷新の中、ローカルな典礼・聖歌は二〇〇年以上続いたものを除いてすべて廃止し、カトリック教会ではローマ式典礼とグレゴリオ聖歌の採用が勧告されている。ローカルな典礼・聖歌の多くは、以降、ヨーロッパでは史料として散逸してしまい、いかなるものだったのか部分的に不明になっている。ところが、イエズス会士による日本への布教はこの公会議と並行していたため、彼らが伝えたのはイベリア半島のローカルな典礼・聖歌であり、多くの研究者によってオラショはその失われた祈祷だと確認されている。つまり、ヨーロッパの失われた文化を知るのに、日本の伝承が助けになっている。
申し上げ
でうす・ぱいてろ
万事かないたもう
うらうら
天にまします
がらっさ
けれんど
あわれみのおん母
十のまだめんと
さんたえけれじゃのまだめんと
根本七悪
七つの善
さんたえけれじゃのさからめんと
慈悲の所作
べらべらんつらんさ
万事かないたもう
みぜれめん
御からだまき
きりやれんず
ぱちりのちり
あめまりあ 
いにてすぺりんと
十五くだり
敬いて申す
十一ヶ条
ぱらいぞ
らおだて
なじょう
まにへか
べれんつす
ぐるりよざ
たっときは八日の七夜の
ぱらいぞのひらき
でうす・ぱいてろ
(『歌オラショ』)
 キリスト教をあげるまでもなく、武士が基づかなければならない道徳思想は武士道だけではない。武士道は、むしろ、非主流であり、新渡戸の『武士道』によってあたかも主流であるかのような神話が以降に形成されている。それは、江戸期、マイナーな学問にすぎなかった国学が、明治以降、国家主義ロビーによって伝統的に漢学と並ぶ地位を占めていたという不遜な歴史のパースペクティヴがつくり出されたのに似ている。かつては「兵(つはもの)の道」や「武者の習い」、「弓矢とる身の習い」という兵士として守るべき徳が説かれていたが、戦国期になると、武士は戦闘員であるだけでなく、領国や領地を治める為政者としての性格も持つようになる。江戸時代に入ると、そうした二重性により武士道と士道が分離し、両者は対立している。前者は昔ながらの伝統を重んじる狭義の徳であり、後者はそれまでの武士の道徳を儒教によって根拠づけられたものである。江戸期の武士道論は肥前国鍋島藩士である山本常朝の談話をまとめた『葉隠』、士道論は山鹿素行の『山鹿語類』士道篇が代表している。特に、死に関する姿勢において、両者は対極にある。『葉隠』は、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」と表現されている通り、死の美学を説いている。人間の一生は短いので、つねに「死身」の奉公を心がけ、生への執着を否定すべきである。その代わり、最善の忠節は出世して家老となり、藩主の傍で奉公することである。いさぎよい死は真の奉公であり、忠義にほかならない。主従関係は情に基づいているため、殉死も衆道(男色)も肯定される。「戦後二十年の間に、日本の世相はあたかも『葉隠』が予見したかのような形に移り変わっていった。日本にもはや武士はなく、戦争もなく、経済は復興し、太平ムードはみなぎり、青年たちは退屈していた」や「われわれの生死の観点を、戦後二十年の太平のあとで、もう一度考えなおしてみる反省の機会を、『葉隠』は与えてくれるように思われるのである」(三島由紀夫『葉隠入門』)。一方、士道は、武士道と比較にならないほど、理論的な色彩が強い。第一、山鹿素行は林羅山の門下生である。朱子学者の林羅山は徳川家康以下四代に渡って仕えた幕府のブレーンであり、大坂冬の陣のきっかけになった方広寺大仏殿鐘銘事件を引き起こし、幕府法令や外交文書の起草、典礼などにも務めた幕府の最大の御用学者の一人である。明治以前の中心的な学問は中国古典を研究であって、朱子学は学問の中の学問にほかならない。素行の士道論では、死はつねに心に置いておくべきだが、それは人間がいつ死ぬかわからないから、普段から一瞬一瞬を懸命に人倫を生きることの重要性が説かれている。武士が為政者でいられるのはその高い道徳性にある。武士は人倫の指導者的立場にある以上、わずかなことにも礼儀を正し、他の身分の模範とならなければならない。武士の身分は道徳的優越性に基づいており、道徳的自覚のない侍はたんなる遊民にすぎない。武士が従うべきなのは道徳規範であって、主従関係において、諌言を聞き入れない主君の下にはとどまるべきではない。殉死も衆道も結果として否定される。「国鉄も一つぐらい大臣の言うことを聞いてくれたっていいじゃないか」(荒船清十郎)。この点は、主君が諌言を聞きいれないとしても、主君の味方となるのみならず、主君の身代わりになるべきだと主張する武士道論とは決定的に異なっている。「組織の一部がやったことであり、強いて言うなら個人ぐるみです」(酒巻英雄)。武士道の思想の中心は奉公であり、士道は為政者としての正統性を語っている。ただ、素行は儒学者であるが、最初の日本主義者の一人でもある。素行は士道を展開する際に、朱子学の抽象性を批判したため、一時期、赤穂に流されている。古学に傾倒した素行は、古代儒教の学問を通じて日本人として自覚すべきであり、日本と中国を比較した場合、むしろ、日本こそが古代儒教で理想とされる中朝であるという中朝主義を主張している。新渡戸が士道でなく、武士道をとりあげたのは、『武士道』の中で日清戦争の勝利を武士道精神の賜物としているように、中国の影響を払拭したいからである。士道でも日本の中国に対する優越性は導き出されるとしても、あくまで中国文化の圏内にとどまっている。日本は中国からの影響関係を清算しなければならない。
 また、江戸時代、庶民の道徳的基礎は吉田兼好の『徒然草』である。辻本雅史の『教育の社会文化史』によると、一七世紀、商業出版が発達し、現在日本の「古典」と呼ばれる作品が出版される。『太平記』を始め、『平家物語』や『源氏物語』、『万葉集』、『古今和歌集』、『枕草子』、『方丈記』、『日本書紀』などそれまで一部の公家や僧侶しか読めなかった作品が次々と刊行されるだけでなく、その注釈本や解説書も刊行される。国学の誕生はこの出版ブームなくしてありえない。中でも、『徒然草』は朱子学者の林羅山も『野槌』という注釈本を出していることからもわかるように、儒学や仏教、歌学、俳諧など広範囲に影響を与え、二〇数種の解説書が出版されている。庶民は『徒然草』を道徳の規範として読み、江戸の論語という地位を獲得している。歴史的に、道徳への寄与の点では、武士道など『徒然草』とは比較にならない。
 新渡戸の知識の歴史的限界をあげつらっても、陰険なだけであろう。けれども、武士の為政者としての立場の強化が藩校創設の契機になっており、南部藩士の子弟である新渡戸が慣れ親しんだ道徳はそこに基盤を置いている。江戸前期、武断政治から文治政治への移行と共に藩校が設立される。一六四一年、岡山藩主池田光政が創設した花(はな)畠(ばたけ)教場が最初の事例である。全国的に藩校が設立されたのは宝暦期(一七五一─六四)以後であり、財政危機に直面した多くの藩が幕府の文武奨励もあって、藩政改革を目的とした有能な人材を育成するために相次いで設立している。発展期には全国で二五五校に及び、ほぼ全藩が抱えている。この頃になると、その趣旨に応じて、人格教育から実学教育へと変容している。また、藩校の隆盛は地方文化の振興にもつながっている。こうした歴史は、現代人よりも、むしろ、新渡戸のほうが承知しているにもからわらず、言及していない。
 新渡戸は、武士道の日本的な独自性を強調し、『武士道』を次のように書き始めている。
 武士道はその表微たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の得が乾からびた標本となって、我が国の歴史の押し葉集中に保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態を取らないけれども、それにもかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。
 日清戦争に勝ったとしても、それは軍事的勝利であって、文化的なものではない。日本は東洋を代表しているわけではなく、東アジアの中国文化圏の東端にすぎない。大陸の大帝国は日清戦争まで朝貢貿易を続けている。中国は東アジア文化圏の中心であるが、それを象徴するのが皇帝である。中国皇帝は東アジアにおける政治的・経済的・宗教的・文化的中心である。皇帝は天の権威を代行、表象する祭祀者としては天子であり、天命を受けて世俗世界に君臨する統治者としては皇帝である。天を中心として組み立てられた王朝の秩序は、天=皇帝(天子)=人民という階層的な上下関係を形成したが、この秩序は、同心円的に徳が広がっていくように、直轄地域の外部の周辺諸国や民族にも波及するものと考えられている。天下万国を治める皇帝の徳をしたって遠方から朝貢する者は「王」として冊封され、皇帝に臣従して朝貢の使節を皇帝の元に送らなければならない。こうして中華皇帝を中心とする広域的で重層的な地域秩序が形成される。一一世紀から一三世紀後半まで続いた日宋貿易において、中国の銅銭は日本にとって主要な輸入品である。金=銅の中国と日本の相場の交換レートの差を利用して、日本側が利益を上げる目的もあったが、中国通貨がこの地域の基軸通貨だったわけだ。日本語の慣用句や熟語など中国古典に由来するものが多いし、一五世紀後半に侘び茶を創始した村田珠光は茶の世界を唐物趣味を和様化するプロセスと捉え、ある手紙の中で、茶の湯の大きな目標は「和漢の境をまぎらかす事」と記している。このような「冊封(The investiture of local
rulers: cefeng)」と「朝貢(Visit to the Chinese Emperor
and paying tribute: chaogong)」のシステムは、清朝の末期まで存続したけれども、日清戦争によって最終的に崩壊する。
 言うまでもなく、実際には、こうしたイデオロギーにもかかわらず、中国は内陸アジアの動向によって左右されている。針治療は、一般には、中国に起源があると信じられているけれども、中央アジアにいたトルコ人が四、五〇〇〇年以上前に行っていたこの医療技術が中国に伝わったという説も有力である。事実、ウィグル人たちが正統的な治療として針について書いた古代の文献の存在は確認されている。アジアの歴史の中心は、長い間、中国ではなく、ユーラシアの東西交易路である内陸アジアにほかならない。内陸の人々が自らの手で記録を残していないために、マイナーな勢力と見なされてきたが、中国側の文献であっても、当時の力関係を読みとることは可能である。司馬遷は、『史記』の中で、漢の高祖よりも、匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)を賞賛している。また、高地での生活により強靭となった心肺機能を持つチベット人は、自主的に武力を放棄するまでは、向かうところ敵なしであり、七世紀初めにチベットを統一したソンツェン・ガンポ王は唐から文成公主を娶っているし、元や清といった漢民族以外の王朝も中国では成立している。「記録と言うとごく簡単に考える人があるが、私は、記録は実におそろしいと思う。記録が大がかりになれば世界の記録になるし、世界の記録をなすものは自然、世界をどう見なおし考えなおすことになるからである」(武田泰淳『司馬遷─史記の世界』)。
 そもそも武士道が支配者階級である武士の道徳であるとしても、被支配者階級には適用されない。「日本」は近代によって形成されたのであり、それ以前、幕府という中央政府はあったとしても、各地域は大幅な自治が認められている。武家の強い江戸と商家の影響力がある上方は文化的に大きく異なっている。「侍の支配の少なかった歴史のゆえか、弱い軍隊を持っていることが自慢のような、大阪や京都で育った。軍国主義の時代としては、中学も航行も自由を標榜していたし、家庭も中流リベラル」(森毅『戦争のメタファー』)。また、境の和菓子屋に生まれた与謝野晶子が日露戦争に対し「君死にたまふこと勿れ」と書くとき、戦争が彼女の出身階級である商家の道徳と相反することを告げている。戦争に参加するのは武士であって、商人ではない。武士道のイデオロギーは武家には適用できるかもしれないが、商家とは無縁である。
 ところが、中国ではこうした乖離はありえない。中国の東アジア文化圏における文化的ヘゲモニーの重荷は、張競の『美女とは何か―日中美人の文化史』によると、女性を描いた絵画の日中の違いが明瞭に示している。描写すべてに意味がある。日本の美人画の中の女性は細長い輪郭、目が細く、鼻筋が通り、おちょぼ口で、腰が細い。絵師は顔の単調さを口の描きを工夫して補っている。江戸期の日本人は細めが好きだったようである。中国においては、二重まぶた、うらなり顔、太め、眉が目から離れて描かれている。お歯黒の習慣は中国にはなく、歯は白いほどよいとされている。纏足の不安定さが絵画を制約し、女性の姿勢は立つか座るかしかない。対する日本の美人画の女性の姿勢は自由である。鈴木春信や喜多川歌麿の浮世絵には、女性が手紙を読んでいる姿もあるが、それによって、男女関係を想像させる。東アジア文化は世界で最も眉にこだわった美意識を持っており、彼女たちが実の眉を持っていることで、職業が推測できる。日本で、遊女は眉をそらない。この錦絵の世界は町人文化に立脚している。日本は文化的中心でないがゆえに、規制が少なく、美人画において、儒教道徳の描写を目標にしていた中国に対して、エロティシズムを追求できる。中国では、宮廷や家庭を描かなければならない。文化的中心である以上、支配者と商人も文化を別にできない。佳人薄命のように、美人は家庭にとって不吉であるから、良妻賢母を選ぶ必要がある。楊貴妃が不幸をもたらした典型であったため、逆に、彼女をモデルにした場合、悪い見本として、例外的にエロティックな描写が可能になる。本音と建前の分離は、文化的ヘゲモニーを守り続けなければならないために、中国芸術ではありえない。
I couldn't escape this feeling
With my 
I'm just a wreck without
My little China Girl
I'd hear hearts beating
Loud as thunder
See the stars crashing
I'm a mess without
My 
Wake up mornings, there's
No 
I'd hear hearts beating
Loud as thunder
I'd see stars crashing down
I'd feel tragic
Like I was Marlon Brando
When I'd look at my China Girl
I could pretend that nothing
Really meant too much
When I'd look at my China Girl
I'd stumble into town
Just like a sacred cow
Visions of swastikas in my head
And plans for everyone
It's in the white of my eyes
My little China Girl
You shouldn't mess with me
I'll ruin everything you are
I'll give you television
I'll give you eyes of blue
I'll give you men who want to
rule the world
And when I get excited
My little China Girl says,
"Oh Jimmy, just shut your
mouth."
She says, "Shhhh..."
(Iggy Pop “
 中国は、近代以前、日本にとって父である。父を殺し、父の痕跡を抹殺することに近代日本は躍起になっていく。日清戦争の勝利後、新渡戸が儒教道徳に関してではなく、武士道について書くとき、中国に対する優越感が顕在化してくる。日本には中国という父はいないというわけだ。「人類を全体として見ても、また個々人として考えて見ても、その一番重大で、かつ最初の犯罪が父親殺しであるという主張の存在することはあまねく知られている。いすれにせよ、罪悪感の主要な源泉が父親殺しにあることは間違いない」、「少年の父親にたいする関係は、われわれの用語でいえば、アンビヴァレントなものである。競争者としての父親を亡きものにしたいという憎悪感のほかに、父親に対する一定度の愛情が存するというのが通常である」(ジクムント・フロイト『ドストエフスキイと父親殺し』)。新渡戸は日清戦争の勝利を武士道精神の賜物と信じていたけれども、東アジア文化圏の中心という重荷により、中国は、日本と違い、容易には近代化に踏み切れない。清に勝ったのは武士道ではなく、西洋近代にすぎない。「私たち日本人の使う漢字熟語も中国語のルールに従っているわけですが、最近の日本人は漢字を駆使して単語を造る能力(造語能力)が低下気味です。あまりに安直なカタカナ外来語の氾濫(はんらん)ぶりもそうですが、たとえば駅にゆくと『券売機(ケンバイキ)』なるものがあります。あれは正しくは『売券(バイケン)』機と言わなければヘンではありませんか。『券ヲ売ル』機械でしょ、すなわち『券』は『売』の目的語のはずですから、『売券』とVOに並べるべきです。『売名』行為、『売国』奴など、いずれもVOです。また、近年、京都の寺院が古都税に反対して『志納金(シノウキン)』なるものを考え出しましたが、これは『志ヲ納メル』金でしょう。それなら、『納志金』と逆にしなければ、漢語のルールに合いません」(『はじめての中国語』)。大正以前に考案・変更された漢語の多くが現代中国語の語彙に取り入れられている。近代を先に西洋から輸入したのは日本であり、自然と近代的意味を帯びた漢語の単語は日本産になっている。しかし、時代を経るにつれ、西洋語から漢語への反訳能力は落ちていく。
I did some time in 
"earned karate and kung fu
And judo because you know
I’m a fuckin’ samurai from the
darkside
Eating fried rice’ and I lie
I’m not Bruce Lee, I’m not
Chinese
I’m on the trapeze’ and I’m
free
In 
And watching hockey in my
jockeys
And I’m a servant to technology
I’m a fuckin’ samurai’ from the
darkside
Eating fried rice’ and I lie
I’m not Bruce Lee, I’m not
Chinese
I’m on the trapeze’ and I’m
free
In my Nissan’ I put the priest
on
And I head out on the highway
to Budokan
I’m metal basted and domo
wasted
I’m a fuckin’ samurai from the darkside
Eating fried rice’ and I lie
I’m not Bruce Lee, I’m not
Chinese
I’m on the trapeze’ and I’m
free 
(Handsome Devil “’Samurai’ Song”)
 架空の連続性を構築し、父殺しによるアイデンティティーの獲得が新渡戸の執筆における真の意図である。新渡戸は、ロバート・カーライルの『衣装哲学』の中の「悲哀の中の慰め」によって解決の方向を見出だしている。カーライルはクェーカーの神秘主義やロマン主義的なヒューマニズムから心の安定を得て、内在する光への黙想の立場が宇宙の生命との一体を説く東洋思想に通じると考え、そこに東西文明の交流の方法を考察している。新渡戸はカーライルのロマン主義的な部分への親近感を覚えている。同じくカーライルを読んでいた内村鑑三(一八六一─一九三〇)が英語で『余は如何にして基督信徒になりし乎』(一八九五)を完全な告白の形式で叙述しているのに対して、『武士道』は、カーライルの『衣装哲学』のように、告白とアナトミーを融合させた叙述形式が用いられている。ノースロップ・フライの『批評の解剖』(一九五七)によると、告白は知的・理論的な領域を「内向的」な関心によって扱うけれども、アナトミーは知的・理論的な領域を「外向的」にとり扱う散文形式と定義できる。内村にとっては、ロマン主義以上に、その叙述形式も単型であるように、キリスト教の唯一神教的な側面が重要である。内村は多神教による苦悩が一神教の受容によって救済されたと言い、非連続性によるアイデンティティーの確保を認めている。新渡戸は、そうした思想との接触から、内村と逆に、日清戦争の勝利に乗じて、連続性によってアイデンティティーの要求を満たす。「すべての過ぎ去るものに意味はない」(『衣装哲学』)。
 そうした連続性とアイデンティティーの探求は『武士道』だけに限らない。新渡戸は、アメリカで療養中の一八九八年に、『農業本論』を発表している。『農業本論』で「地方学(じかたがく)(ruriology )」を提唱しているが、この「地方学」は柳田国男(一八七五─一九六二)の民俗学に多大な影響を与えている。新渡戸の最大の功績の一つは柳田国男の民俗学誕生に寄与したことであると言ってよい。「地方学」は柳田国男の農政学から民俗学への転換の過程において重要な役割を果たしている。新渡戸は、当時の農本主義者である横井時敬とは違って、農業や農民を美化して捉えない。岡谷公二の『柳田国男の青春』によると、新渡戸稲造は「農業が人心に好影響を与え、道徳を向上させ、愛国心を高め、自立心を涵養するとは考えない。農民者に犯罪が少ないのは、『是れ敢て農業が直接に人を全量なら湿るゆえに在らず、寧ろ其境遇の然らしむるによる』のであり、彼は、農民の多くが粗野で、猜疑心が深く、淫猥の風に慣れていることをはっきりと認めていた。また彼は、『農は愛国心を養うのは義務なりとは、余の切に願う所』と書き、農民の自立自由とは、政治的・社会的自由でなく、禽獣の自由だと断言する。彼はこのような現実認識に立ちつつ、しかも農業と農民とに周到な理解を示し、農業が『国富の基』であるゆえんを縷々と説く」。新渡戸によれば、村を調査する際、村の旧墳、家屋、大字小字といった地名、飼牛交換、虫送り行事、講中組織のような村の風俗に注意しなければならない。村人の間で長く受け継がれてきたものは、非合理的・恣意的に見えても、必ず歴史的に必然的な存在理由がある。新渡戸は、日本の村々はさほど大きな差異が認められないほどみな似ており、一村一郷を詳細に分析すれば、全国の村々全体の様相を把握でき、国家社会の課題さえも解明することが可能であるとして、村落の「顕微鏡的観察」に基づく学問や方法論の必要性と重要性を説いている。その新渡戸の「地方学」の発展した学問を柳田国男の「民俗学」である。「郷土を研究しようとしたので無く、郷土で或るものを研究しようとして居たのである。その『或るもの』とは何であるかと言えば、日本人の生活、殊にこの民族の一因としての過去の経歴であった。それを各自の郷土に於て、もしくは郷土人の意識感覚を透して、新たに学び識ろうとするのが我々どもの計画であった」(柳田国男『国史と民俗学』)。新渡戸の「地方学」の対象としている村は明治政府の町村合併政策によって新たに制定された行政村ではなく、幕藩体制における村落である。「地方学」も、『武士道』の方法論と同様、連続的なアイデンティティーを求める内省的な学問である。「意識というものは核を求めたがる性質もあるが、国家と民族とか、共同体はいまさら核になるだけの求心性を持たぬ。そこで自己を核として求めるのだが、その自己が他社といりまじって拡散する.精神分析が、アイデンティティーなどと言って、自分さがしにこだわるのは、いくらか無理のような気がする」(森毅『自己という幻想』)。
If you wanna see a Nackedei,
you fly to 
Madame Butterfly makes you
high, für Kilo oder zwei, oh.
Herr Meier fährt im Urlaub nur
nach 
Doch nicht wegen Landschaft,
wegen weiblicher Bekanntschaft.
Zuhause ist Herr Meier eine
graue Maus.
Im goldenen Dreieck läßt er Sau
heraus.
Eine Lotusblüte, wunderzart und
fein
Von allerbester Güte, lädt
Herrn Meier ein.
Mister Meier, bitte sei mein
Samurai.
Oh Mister Meier, bitte sei mein
Samurai.
Zahlst du mi cash, hupf i aus
der Wäsch
So schiach kannst gar net sein!
Herr Meier find in 
Mag Curry nicht und Sojakeim,
mag Wiener Schnitzel wie daheim.
So eine Massage liebt Herr
Meier sehr
Und für bessere Gage kriegt er
noch etwas mehr.
Ja, im Land des Lächelns sind
die Frauen klein
Er beginnt zu hecheln, könnt
seine Tochter sein!
Mister Meier, bitte sei mein
Samurai.
Oh Mister Meier, bitte sei mein
Samurai.
Zahlst du mi cash, hupf i aus
der Wäsch
So schiach kannst gar net sein!
Daheim ist Meier sehr
verklemmt, doch hier kauft er sich Seidenhemd.
Am Strande von Papaya, da
schwellen ihm die Adern.
Herr Meier fliegt nun gleich
weg, der Urlaub, der ist aus.
Vom goldenen Dreieck bringt er
was mit nach Haus.
Er spürt ein Zwickizwacki
unterm Kimono
Was ist denn dort am Sacki?
Lausi - oho!
Mister Meier, bitte sei mein
Samurai.
Oh Mister Meier, bitte sei mein
Samurai.
Zahlst du mi cash, hupf i aus
der Wäsch
So schiach kannst gar net sein!
You wanna see a Nackedei, you
fly to 
Oh you wanna see a Nackedei,
you fly to 
Madame Butterfly makes you
high, für Kilo oder zwei. 
(Erste Allgemeine Verunsicherung “Samurai”)
戦国時代、武士は、『七人の侍』が描いているように、百姓に雇われることも少なくない。侍はヒエラルキーの頂点にア・プリオリにいたわけではない。「もともと生きていくなかで、過去が物語に組みこまれるのはわずかで、たいていの過去は死んでいく。忘却するから、新しいもの物語が生まれるのだ。(略)自己という形だって、意図して積みあげて作ったというより、多くの過去を死なせることによってできたものではないだろうか。人生という物語は、過去の自分を殺す物語のようなところがある。最終的な死までいたらなくとも、人間はいつも部分的に死んでいる」(森毅『自己という幻想』)。「また負け戦だ。勝ったのは百姓だ。わしらではない」(黒澤明『七人の侍』)
 森毅は、『戦争のメタファー』において、武士を比喩に「戦争がなくなると、戦争は神話化する」と次のように述べている。
 戦国時代の実際の戦闘では、甲冑をつけているし、立合って着眼の構えなんて、あるはずがない。戦争のない江戸時代になって、武芸者が平服で立合う非日常として生まれたのが、剣道というものだろう。居合い抜きが重視されたのは、西部劇の早射ちと同じで、道で出会った武芸者が相手の殺気を感ずることが重要だったゆえらしい。
 江戸時代以前の武士では、主君を変えることがよくあった。それどころか、同時に二人の主君を持つことだって、中世には珍しくなかったらしい。二君に仕えないというのは、江戸時代に主従関係の固定化のためとしか考えられぬ。武士道というものは、武士が不必要になったから成立したのではないだろうか。
 江戸時代以前の武士は一種の傭兵である。主従関係が売買の契約関係である以上、主君を変えたり、同時に二人の主君を持ったりすることは非難されるべきではない。新渡戸は、武士道が「遥か以前から存在していた」が、「封建時代において自覚せられたもの」と言っている。「生者ばかりか、死者の魂も登場して、自分にのりうつったりしかねない。人間の意識はいくらか夢に似ている」(『自己という幻想』)。動機もあり、アリバイ工作もした新渡戸被告の証言は陪審員を納得させられない。”Members of the jury, you've
reached a verdict?” “We have, Your Honor”. “What say you?” ”In the matter of
History of Eastern Asia vs. Nitobe, we find in favor of the plaintiff”. “Ladies
and gentlemen of the jury, thank you for your services. Court is adjourned”.「物語には幻想がつきもの、だから自己幻想も否定しない。しかしせめて、自分自身の自己とぐらいはもっと気楽につきあいたいなあ」『自己という幻想』)。士道にしろ、武士道にしろ、失われた侍の神話化によって成立し、体制の正当化に利用される。こうした神話化は、確かに、日本だけではない。映画やテレビの西部劇では自由を代表するカウボーイは銃を持った白人であるが、二〇世紀に至るまでアメリカのカウボーイの多くはメキシカンや黒人であり、テキサス州を除くと、ほとんどは銃を携帯していない。その事実を踏まえて、よく見ると、白人という点は別にして、ウェスタンの舞台はテキサス州かメキシコになっている。銃=自己防衛=自由という神話はメディアがつくり出したにすぎない。近代では、神話はメディアを通じて形成される。「日本は高学歴社会によって高度な情報化社会になった。アメリカでは黒人とかプエルトリコとかメキシカンとか、そういうのが相当おって平均的に見たら非常にまだ低い」(中曽根康弘)。新渡戸は、『武士道』において、失われた侍の神話化をさらに神話化している。これは二重の神話化にほかならない。この二重の神話化を通じた父殺しによって、近代日本は「大東亜共栄圏」を経て、「名誉白人」の地位を得るために邁進していく。
さあ不思議な夢と遠い昔が好きなら
さあそのスヰッチを遠い昔に廻せば
ジュラ期の世界が拡がり
そこははるかな化石の時代よ
アンモナイトはお昼ね
ティラノザウルスお散歩アハハン
さあ無邪気な夢のはずむすてきな時代へ
さあタップダンスと
恋とシネマの明け暮れ
きらめく黄金時代は
ミンクをまとった娘が
ボギーのソフトにいかれて
デュセンバーグを夢見るアハハン
さあ何かが変わる
そんな時代が好きなら
さあそのスヰッチを少し昔に廻せば
鹿鳴館では夜ごとの
ワルツのテムポに今宵も
ポンパドールが花咲き
シルクハットがゆれるわアハハン
好きな時代に行けるわ
好きな時代に行けるわ
時間のラセンをひと飛び
タイムマシンにおねがい
(サディズティック・ミカ・バンド『タイムマシンにおねがい』)
〈了〉